高田賢三 The World is Beautiful. 

日本モード・ファッション界の先駆者

兵庫の姫路に生まれた高田賢三は、姉たちの習う洋裁やファッション雑誌に影響を受け服飾に興味を抱きます。大学を中退し、当時男性に門戸を開いたばかりの文化服装学院へ入学。在学中にデザイナーの登竜門である「装苑賞」を受賞するなど、突出した才能の持ち主でした。花開いた才能は、国内にとどまることなく世界へと渡っていくことになります。

パリでの活躍

国内で輝かしい賞を受賞した賢三は、1ヶ月もの船旅を経てフランス、パリへと渡ります。デザイン画を売りながら生計をたてていた賢三は、ギャラリー・ヴィヴィエンヌに初のショップ「ジャングル・ジャップ」をオープンさせ、小さなファッションショーを開催しました。そこでELLEの編集長の目にとまり、後にELLEの表紙をKENZOが飾ることになります。日本の着物の生地やスタイルを取り入れたKENZOのファッションは瞬く間に人気を呼び、ニューヨーク、東京でもコレクションを開催。世界的に活躍するデザイナーとなったのです。

「旅」とクリエイション

日本からフランスまでの1ヶ月にも及ぶ航海中、賢三は、アジア、アフリカの様々な国を訪れました。そこで初めて出会う国の文化や建物、色彩豊かな草木や花々、人々の笑顔。日本では感じることの無かった太陽のまぶしさや、風のにおい。The World is Beautiful ~世界は美しい~という思いは、この旅を経てうまれ、彼のクリエイションの源となりました。
そしてそれらは賢三に大きな衝撃を与え東洋と西洋の融合という、彼独自のスタイルが誕生します。当時、オートクチュールが主流の立体裁断に着物の平面裁断を取り入れ旅先で出会った美しい世界を色彩や素材で表現。まとうことで完成するカラフルなKENZOのファッションは、パリのプレタポルテを牽引する世界的なブランドとして成功を収めます。そして、高田賢三が引退した現在もそのものづくりの姿勢はKENZOのクリエイションに生かされています。

高田賢三 / ファッションデザイナーKENZOの創始者

1939年
2月27日、兵庫県姫路市に生まれる。
1958年
当時男性に門戸を開いたばかりの文化服装学院の師範科に入学。
1961年
デザイナーの登竜門といわれる第8回装苑賞を同学院在学中に受賞。
1965年
航海をしながらアジア、アフリカ各国を巡り、渡仏。
1970年
『ジャングル・ジャップ』をギャラリー・ヴィヴィエンヌにオープンし、8月、初めてのファッションショーを開催。

まだ日本と言う国の存在をよく知られていない時代のパリで、平面裁断と立体裁断を融合。着物にインスピレーションを得た作品で、ゆとりのない服が主流だったフランスの人々を驚かせ、一世を風靡。花柄を多用し、そのカラフルな色彩使いから“色の魔術師”と呼ばれ、パリのプレタポルテを牽引するファッションデザイナーとなる。ニューヨーク、東京でコレクションを開催し、日本エディターズ・クラブ賞など数々の賞を受賞。

1973年
『KENZO』の名で、パリ・プレタポルテ デビューを果たす。
1976年
現在のKENZOショップがあるヴィクトワールへ移転。
1984年
フランス政府から芸術文化勲章(シュヴァリエ位)受章。
1987年
ケンゾー パルファムを設立。
1988年
初めてのフレグランス「サ サン ボー」を発表。
フレグランスもまた、洋服以外に見出したスピリットを表現する場となっていく。
1998年
フランス政府芸術文化勲章(コマンドゥール位)受章。
1999年
ニューヨークにおいてタイム・フォー・ピース・アワード(ファッション部門)受賞。
1999年
5月、紫綬褒章を受章。

高田賢三の始まり

1964年11月30日、雨雲から晴れ間が差したその日、若き日の高田賢三は、横浜でカンボジア号に乗船していました。この船で、彼は途中、香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ジブチ、アレクサンドリアに停泊しながら 1ヶ月間の長い船旅をします。インド洋、紅海、そしていくつものアジアの港を経て、賢三は待望の大陸、アフリカに到着しました。パリまでの長い航海を振り返り、「フランスまでは非常に長い旅だった」と、彼はよく言っています。しかし、飛行機の旅ではおそらく味わえなかったはずの大きな衝撃を受けた彼は、この長い船の旅を決して後悔することはなかったとも話しています。そして1965年1月1日、その後彼の功績を刻むことになる場所、パリへ初めて渡ることになるのです。

高田賢三が最初にファッションに触れるきっかけとなったのは、姉たちの一人が、当時の女性には一般的であった洋裁を学んでいたことでした。兵庫の姫路城近くで待合茶屋を営む家に生まれた彼が、西洋風の少女たちで溢れた姉たちのファッション雑誌を手にする機会を持ち、ファッションに強い関心を抱くようになったのです。

伝統的な空気の中に育った彼でしたが、当時、男子に門戸を開いたばかりの東京の文化服装学院の師範科に入学を希望し、男子の一期生として入学を果たしました。猛勉強の末夜間のクラスを取り、昼間は看板を専門に描く画家のアシスタントなどをこなし、授業料を工面する毎日を過ごしました。そして1961年、デザイナーの登竜門として知られる第8回装苑賞受賞を皮切りに、国内で数々の賞を受賞します。

高田賢三が航海をしながらパリを目指すきっかけとなった1つに、こんなエピソードがあります。卒業後に服飾メーカーに勤めていた頃、住んでいた建物が取り壊されることになったのです。このとき受け取った補償金が、彼のヨーロッパ行きの資金になったといいます。そして半年間の休職を許可された賢三は、ファッションの歴史を作るオートクチュールのデザイナーが活躍するフランス、パリへと渡ることを決意します。船を降りたとき、彼のスーツケースには旅先で集めた絵葉書がたくさん詰まっており、それらがその後の彼の仕事の背景を成すことになるのです。

パリでのスタート

オートクチュールのデザイナーが多く活躍する中、女性がパンツスタイルで仕事をすることは社会通念上認められていなかった時代にパリに渡った賢三。下手なフランス語を話す若い日本人青年がデザインする服や、彼が着ているのと同じケーブル編みのセーターは、当時の若い女性たちに支持されました。彼女たちはそれらを買おうと、彼のデザインを取り扱う店に殺到したといわれています。
そして1970年、高田賢三はギャラリー・ヴィヴィエンヌに初めてのブティック『ジャングル・ジャップ』をオープンします。まだお金の無かった彼は、自ら店内の装飾を3ヶ月かけて描き、そこではじめての小さなファッションショーを開きました。
招待客は、わずか20名ほどではありましたが、そのとき訪れていたELLEの編集者の目にとまり、後にELLEの表紙をKENZOの服が彩ることになります。そしてそのフレッシュな明るさに溢れるKENZOのデザインは、瞬く間にパリの女性たちを虜にしていったのです。

高田賢三のメッセージ「Joy of life ~人生を楽しもう~」そして、「The world is beautiful ~世界は美しい~」

初めて船で渡仏した後も、賢三はインスピレーションを与えてくれる国を訪れ続けました。色鮮やかな花や、国々の伝統的な衣装や建物、多様なインスピレーションに満ちあふれた世界と身にまとうことで完成される日本の着物の平坦な断裁を取り入れた自由で美しいスタイルは、まさに「旅」から生まれたKENZO独自のファッションとなったのです。
そして彼が旅することから得たものは、単に目に見えるものだけではなく、そこに流れる空気や人々の笑顔、風の匂いでした。世界の美しさから衝撃を受けた賢三は、洋服という形にとどまることなく、それらを表現することを惜しみませんでした。楽しそうで、幸せそうなKENZOのファッションショーは、見るものの心を捉え、そこにいる人々はまるで夢のような体験をすることができたのです。

美しい自然や世界は、彼のものづくりの源でもあり、彼の生み出すものは、まわりの人々を笑顔にしてきました。そしてその思いは、今なお現代のKENZOのものづくりに引き継がれています。